"曖昧なものへと変化する身体"
人は曖昧なものを曖昧なままにしない。社会生活が境界を設けることを要求するからだ。そもそも、自分を含む世界が秩序を持たなければ、自分の存在も脅かされる。だから、全てに境界線を引こうとするこの心理は自分に近いほど強く働く。身体は所有の対象であり、またごくプライヴェートなものとして基本的には他者に対し閉じている。そしてそのラインが侵されるような事態には拒絶の姿勢を示す。(私は、そのように極端に閉じた「個」として存在することを時に息苦しくも感じている。)
"身体≒観察の対象となった一塊の生物"
未知のものに言葉と境界を与える大きな役割を果たしたのが科学だ。しかし現代ではその科学によって、とりわけ医学の発達に見られるように、身体の内と外、部分と全体の関係は転倒しつつある。
ヒトの耳の軟骨細胞を培養し新たに耳を形成し、その耳を免疫能力異常の鼠の背中に移植する、新生男児の性器の包皮を培養しサッカーコート数面分の人工皮膚を作るetc,,,どこまでが自分でどこからが自分でないのか。
これらの技術はいずれも、私が持っていた閉じた身体のイメージを覆すものであった。いまや身体の断片は生きものとして成長し機能し得る自立性を獲得しつつあり、私たちの身体そのものが名状できない曖昧なものへと変化している。自他を隔てる、その「自」の方から境界が溶解していることから、身体が今ある諸々の境界を揺るがす契機として働くのではないか、と考えたのがひとつである。